AIが便利になるほど、人間の「誠実さ」が試される

AIというと、もう知らない人の方が少ないのではないだろうか?
そのお陰か、近年、益々AIは便利になった。
画像も、文章も、資料も、発信も、以前よりずっと簡単に整えられるようになり、誰でも、短い時間で、見栄えのいいものを作れる時代になった。
でも、その便利さは同時に、使う人の中にある雑さや不誠実さも増幅してしまう。
本当はイメージ画像なのに、証拠のように見せる。
本当は確認していないことを、断定的に語る。
一部だけを切り取り、人の怒りや不安を動かす。
などなど…
こうしたことが、これまでよりずっと簡単に、ずっと巧妙にできてしまう。
AIが危険なのではない。
AIを使う人間の姿勢が危ういとき、AIはその危うさを増幅する道具になる。
個人だけの問題ではない
そしてこれは、個人だけの問題ではないと思う。
最近の世界的情勢を見ていても、権力を持つ人たちの言葉や態度から、誠実さが失われているように見えることがある。
政府や権力者は、国民の代表であると同時に、その社会にある価値観がデフォルメされて表に出た存在でもある。
もし、そこにあるのが
- 「バレなければいい」
- 「印象を操作できればいい」
- 「勝てばいい」
という感覚なら、AIはそれをさらに強めてしまう。
せっかく人間を助けるほど有能なAIが生まれてきたのに、それを人間自身が不誠実さを拡大するために使ってしまえば、あっという間に、社会の信頼は壊れていく。
だから今、問われているのは技術ではない。
いかに人が誠実で在れるか、ということだ。
風の時代らしいAI時代とは、実は人間性が試される時代なのだと思う。
便利さは、人を成熟させるとは限らない
便利さは、人を成熟させるとは限らない。
むしろ、余白が生まれたときに、その人の内側にあるものが出てくる。
生活が便利になると、時間も手段も増える。
本来なら、その余裕で人はもっと考えたり、学んだり、誰かを思いやったりできるはずだ。
でも、その人の中に誠実さが育っていなければ、その余裕は、
- ごまかす余裕
- 見せ方を操作する余裕
- 責任から逃げる余裕
- 自分に都合よく現実を作り替える余裕
にもなってしまう。
AIもまさにそこに入ってくるんだと思う。
AIが悪いというより、便利な道具を手にした時に、人間の未熟さが露呈する。
思えば、これは昔からあったことだ。
新聞の見出しの切り取り、政治家のレトリック、広告の誇張などから「誠実さの境界線が滲む」という現象自体は、AIが生んだものではない。
ただ、それに気づき、声に出す人は、いつも少数派だったように思う。
AIが変えたのは、その滲みを起こすコストが劇的に下がったということだ。
誰でも、瞬時に、説得力のある形でそれができてしまう。
怖いのは、本人に自覚がないこと
そして怖いのは、本人に自覚がないこと。
「嘘をついている」という意識すらなく、
- 「自分は正しい」
- 「これは演出」
- 「みんなやっている」
- 「目的のためなら仕方ない」
みたいに、どんどん境界線が曖昧になっていく。
能力より先に必要なもの
だから結局、便利さの時代に必要になってくるのは、能力より先に、
- 自分の言葉は誠実か
- 人を誤認させていないか
- 都合のいい見せ方で現実を歪めていないか
ここを自分で見られる力なんだと思う。
AIはこれからも進化し続けるだろう。
けれど、その進化に見合う誠実さを人間が持てるかどうかは、技術の問題ではなく、一人ひとりの姿勢の問題なのではないだろうか?
便利さを手にしたときに何が出てくるか?
そこに、私たち自身の人間性が映し出される。
便利な時代になったぶん、私たちはもう「知らなかった」「そう見えたから信じた」だけでは済まされないところに来ているのかもしれない。
軽く言えば、ほんとにもう、馬鹿じゃいられない時代だね(笑)
なんて言っている私自身も、馬鹿じゃないとは言い切れない。
気づいていないことも、きっとまだまだ沢山あるだろう。
だからこそ、便利なものを使うときほど、自分の言葉や姿勢が誠実であるかを、何度も立ち止まって見直していきたいと思う。
実を言うと、これ、AIや便利なものに限った話ではないんです。
と言うと
あなたには
どんなものや、どんなことが、思い浮かんできますか?(ΦωΦ)?
では( *・ω・ )ฅ"


八咫烏の黒陽と、猫のオブシディアンを中心に、
神様未満、あやかし以上。修行中の者たちによる、煩悩多めの4コマ漫画を描いています。
真面目な話の合間に、少し笑って緩みたいときにどうぞ。

